「慶派」の誕生と発展 その2
●平家の陰謀により奈良の都は焦土と化した!
南都復興を目指し、男達は立ちあがったのだ!!●
執筆:日仏会慶派担当客員講師
1180年、社会的勢力を強めた興福寺、東大寺の僧侶達を恐れた平家一門は般若寺に火を放ち、興福寺、東大寺を含む南都一帯を焼き尽くした。いわゆる治承の乱である。
金堂の大仏は溶け落ち、数多くの仏像や堂宇を失った。当時の政権を担っていた後白河法王、源頼朝などは、東大寺の復興、大勧進職に重源(ちょうげん)上人をあてがい、重源は当時みるみる実力を上げつつあった慶派に大仏殿脇侍、四天王などの大きな仕事をあたえた。この重源はこれ以前から阿弥陀信仰を通じ快慶と個人的なつながりがあり、これらも慶派の抜擢になんらかの影響を及ぼしたのではないかといわれている。 そして南大門金剛力士像を含めた東大寺諸像を完成させた慶派一門はひろく世間に認めらる集団となった。 |
運慶:
興福寺の法相六祖衆や同じく南円堂の不空絹索観音を造った康慶の息子である運慶は、父の作風をさらに洗練し、南大門金剛力士像の頃にはすでに康慶の技量をうわまわっていたといわれている。その技量と、慶派直系の血筋であることから、慶派の中心的存在となる。 運慶は南都焼亡の時、焼け焦げた大仏殿の木片を軸木とした運慶願経を作成していて、当時の運慶の悲しみをかいまみることができる。(運慶は若年期から興福寺で過ごしてきた) そんな運慶のデビュー作は円成寺大日如来坐像、その他、金剛峰寺八大童子立像、浄楽寺阿弥陀三尊像、興福寺北円堂無著・世親立像などが有名。 円成寺 大日如来 |
以上のリストのほかに東大寺俊嬢堂の重源上人坐像が運慶、東大寺の中性院の弥勒菩薩立像が快慶の作である可能性が高いといわれている。
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10 SEP 1999