レポート:最高顧問(U)の「慈尊院見仏録」


  慈尊院 〜思惟する秘仏〜

  朝8時、通学の高校生たちの喧騒に紛れるように高野口の改札を出た。
  ある程度予想はしていたとはいえ、駅前にはコンビニひとつない。朝早いせいか、それとも一緒に乗ってきた高校生たちがバスに吸い込まれていなくなってしまったせいか、駅前は不気味なぐらい静まり返っていた。

  空腹ではあったが、仕方なく、南へ向かって歩き出す。正面に見える山々は高野山地であろうか。「高野山に詣でる人は必ず慈尊院に立ち寄る」ということを思い出し、少し気分が乗ってきた。それにしても、いい天気で、しかも暖かい。前日まで小雪の舞っていた関東地方とはずいぶんな違いである。
川向こうの集落に慈尊院がある
紀ノ川河原より高野山方向

  紀ノ川を渡ると、「慈尊院」の案内看板が見えてきた。と同時に、大型車両用の駐車場と警備員の姿も。道を尋ねついでに聞いてみる。

「これって、慈尊院の拝観者用なんですか?」
「そうだねぇ、団体さんが観光バスで来るからねぇ」
「昨日は日曜日だけども少なくて。それでも1800人くらい来たかなぁ」

  21年に1度の拝観、前回は平成5年だったが、そのときは3日間しか開扉していなかったが今回は1週間。前回より比較的閑散としているらしい。

  通りを左に曲がると正面に小さな山門が。一目でそれとわかる。
多宝塔、本堂とあったが、境内は思ったよりも小さい。とりあえずまっすぐお目当ての弥勒堂へ。地元の方が協力されているのだろうか、朝早くだというのに多くの方が受付におり、平日の朝から一人で訪れた不審な男だというのも関わらず、暖かく出迎えてくれた。

  弥勒仏は堂外からの拝観である。堂内には明かりは一切なく、早い話暗い。合掌ののち、双眼鏡を取り出し、改めてその御像を肉眼、双眼鏡で交互に眺めてみた。

  堂内の厨子内に、ややうつむき加減で安置されていた。1mにも満たない像だというのにもかかわらず、存在感は圧倒的。手前に厨子を守るかのように四天王が居並んでいたが、自分にはまったくその記憶がない。平安初期に作られたのに、あたかも鎌倉仏であるかのような堂々たる体躯などと相まって、その存在感は「21年に1度」というフレーズからだけではないように思われた。
アニメ顔
境内のいたるところに弘法大師さん

  慈尊院弥勒は、知る限り2枚の写真しかみたことがない。真正面からの写真。これは本体のみでしかもモノクロ。もう1枚が有名な方で、これはやや下から、台座光背を含め仰ぎ見るような位置から撮ったもの(これは今回の特別公開用のポスターとして町中至るところに貼ってあった)。いずれも他を寄せ付けないような独特の雰囲気を写真からですら発していたように感じていた。にもかかわらず、今目の前に安置されている像は前述したようにややうつむいたような、言い換えれば何かを思案しているように見える。そう、弥勒像といえば「思惟」である。

  衆生を救う方法を思案するということで、広隆寺のあの御像を筆頭に、菩薩の姿で思惟の弥勒像は多数つくられてきた。しかし、それはあくまで「菩薩」としての話。下生後の如来像となったのちの弥勒で「思惟」の姿を拝観することができるとは、正直驚きだった。

   弥勒は56億7千万年ののちに如来の姿で衆生を救いに下生する仏とされている。今目の前に安置されているのはまさにその像ではないかと思うと、妙に納得したような気持ちになった。


■ JR和歌山線「高野口」駅より徒歩30分。
■ 南海高野線「九度山」駅より徒歩15分。



   
栄山寺 〜天平の残光〜

  和歌山線で東進すると、橋本を過ぎたあたりから奈良県に入る。とはいえ、奈良観光に来る人で、ここまでわざわざやって来る人はあまりいないのではなかろうか。そんな奈良県の南のはずれ、五條市に栄山寺はある。「国宝 栄山寺八角円堂」意表を突く存在である。

  何しろ、古い。
  寺伝によれば養老年間に藤原武智麻呂の創建であるといい、大雑把にいっても1300年前ということになる。この寺の目玉、栄山寺八角円堂は武智麻呂の子、仲麻呂が親の追善供養のため建立したものである。時代的にも、つくり的にも法隆寺東院の夢殿に相通じるものがある。
青空に映える天平の遺構
国宝栄山寺八角円堂

  意外に思われるかもしれないが、奈良に純粋な奈良時代の建築物はそれほど数多く残っていない。雷火、戦火、廃仏毀釈、幾多の炎の中に失われていったのである。にもかかわらず、不思議とこの堂は築1250年の美しい姿を今に伝えている。 同世代のほかの建物が失われても、建立者が悲劇的な最期を迎えても、奈良の片隅で悠然と存在し続けているこの建物の「運」というようなものを感じずにはいられない。

  どれだけの人がこの建築物を見てきたのかは知るよしもないが、1300年の「歴史」の中に生きていた人々がこの建物を見てきたことは間違いない。そんなとき、今も変わらないその姿を目の前にしている自分は、歴史の中の名も知れぬ人々と想いを共有することができる。そして、1300年後にも、自分と同じような想いで後世の人がこの建物を見ることができるのだろうかという、一抹の不安も。

  「歴史」という時代の積み重ねを実感できるのはまさにこのときである。自分を含めた「歴史」に興味を抱く人がこのような「古いもの、長きに渡って不変のもの」に惹かれるのはこういった体験があるからだろう。

  栄山寺八角円堂。
  今でこそ国宝とされているが、建てられた当時は目を引く存在ではなかったかもしれない。しかし、生き残ることにより、奈良時代の「香り」を今に伝える建物として賞されている。仏像もまた然り。今に伝えられる「優品」とされる像も、いわば「生き残る」ことにより、今に名声を得ているといっても過言ではないだろう。
至福のひと時
エメラルドグリーンの川面


  拝観終了後、バスが来るまで30分以上あり、五條まで歩いて戻ってもよかったのだが、気が変わり、下を流れる吉野川の河原で昼寝と洒落込んでみた。境内にいた頃もそうだったが、バスどころか車もめったに通らないので、人工的な音とはまったく無縁。そして川の水が見事にエメラルドグリーン一色。八角堂の拝観とあわせ、実に贅沢な気分を味わうことになったひとときである。
  栄山寺、たかが国宝建築1基と侮る勿れ。




■ JR和歌山線「五條」駅より奈良交通 高田方面行きバス「栄山寺口」下車徒歩15分。
■ あるいは西阿田方面行きバス「栄山寺前」下車すぐ(本数極小)。


 
秋篠寺 〜5年ぶりの再会〜 
奈良では珍しいか?苔の庭。
コケに覆われた境内

  今宵の宿は奈良市内ということにしていたが、まだ日が高く、せっかく奈良まで来たのだからこのまま宿に直行するのももったいないように思われ、明日行く予定していた秋篠寺へ立ち寄ることにした。

  西大寺から、信じられないような狭隘路地を縫うようにバスが駆け抜けた先は、秋篠寺の門前。境内は一面、三千院を思わせるような苔の緑色に覆われ、微かに白檀香の香りがする。

  ここの「目玉」というべき伎芸天の美しさ、優美さについては、すでに数多の人々によって語りつくされた感があり、今さら自分がどうやって述べても、二番煎じの謗りを免れないように思う。自分が秋篠寺に来るのは後で確認したところ、実に5年ぶりになるらしい。それほどこの像を生で見ていなかったようには、そのときは思えなかった。

  改めて実際見てみると、長身である。首から下は後補なのであろうが、寺の説明にもあるとおり、絶妙なバランスで、まるで違和感を感じさせない。

  このような単独のみで洗練された仏像、という存在を目にしたとき、常々思うのは造立当時、この像は一体どのようだったのか、という点である。今、誰からも美しいと賞されているが、当時の人々にも美しい像だと受け容れられていたのか、漆箔で輝いていたのか、群像として建立されたなら、どのような位置を占めており、どのような兄弟(あるいは姉妹か?)がいたのか、体躯は今と違う姿だったのか、などなど。特に「伎芸天」などという他ではまずお目にかかれない仏像であるなら、なおさら謎めいて見える。
堂内には他にもたくさんの仏像が
国宝 秋篠寺本堂

  そんなことを思い描きながら見つめていると、初めて見た5年前も、この像の前に立ったまま、しばらく目線をはずせなかったのを思い出し、苦笑してしまった。ただ、そのときはその美しさに呆気にとられているだけだったので、5年の月日を経て、少しは冷静に仏像を見ることができるようになったのだろう。

  それにしても、今日は慈尊院から始まって、ずいぶんと欲張った行程になってしまった。
  この後、東大寺修二会にも顔を出す気でもいたし、腹八分目どころではない。初日にこれだけ飛ばしてしまっては、明日の予定が思いやられる。



■ 近鉄奈良・京都・橿原線「西大寺」駅下車。徒歩20分。
■ 西大寺駅より奈良交通バス「押熊」行き「秋篠寺」下車徒歩すぐ。


文/最高顧問

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3/APR 2005

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