『見仏人の祈り』

(この文章はいとうせいこう氏のホームページにあった文章(著作権フリー)を転載したものです。)


いとうせいこう

   仏像を見て回り、あれこれと文章を書くという仕事をこの五年ばかり続けている。同行者はイラストレーターみうらじゅん。彼は仏像に“かっこよさ”を求め、“美しさ”に驚き、“おかしさ”に頬をゆるませる。

   どうやら、この二人の道中記を読んで、怒りを感じる僧侶も少なくないらしい。なにしろ、仏像を見た途端、「うわー、セクシーだ」などと声をもらすのだから、いわゆる敬虔な仏教徒としては許しがたいものがあるのだろう。仏像はひたすら拝むもので、余計な感想を口にする対象ではない、というわけだ。確かに我々は、仏像に対して決して手を合わせず、ひたすら目を見張るばかりである。

   しかし、と私は思うのだ。それならば、当の寺で売られている“仏像の御利益グッズ”こそが、ま さに不敬の象徴になってしまうのではないか、と。そもそも、仏陀は“御利益”などという教えは 説かなかったのであり、そう考えれば、仏像が庶民信仰の対象となった鎌倉時代にこそ、日本人は 仏の教えから離れてしまったことになる。

   祈り=御利益という考え方が恐ろしい結果を生むことは、すでに昨年地下鉄内部での忌まわしい事件によって明らかになってしまった。だから、今本当に仏教徒がなすべきことは、祈りの真の価値 を再獲得することなのだろうと思う。御利益のために祈ることなどすぐさまやめてしまえ、と声を大にして伝えることなのではなかろうか。

   我々の旅をまとめた最初の本『見仏記』にも書いたことだが、京都の大報恩寺でこんな体験をした 。自意識について考え過ぎ、脳の回線がショートしそうになっていたちょうどその時、私は大報恩寺で如意輪観音像の前に立ったのである。そして、あまりにも安らいだその表情に誘われて、知らぬ間にゆったり微笑もうとしていたのだ

   微笑みの形を取るだけで、私は自動的に判断停止をし、思考の地獄から逃れていた。これはなんとも感動的な瞬間だった。

   その如意輪を実在する存在だと思ったわけではない。逆にただの物質だと感じたのでもない。つまり、私は天界にも現実界にもいない相手として、その如意輪を受け止め、何かを得たのだった。仏 像を宗教として見るのでもなく、また美術として見るのでもないぼんやりとした目で素直に立っていたのだ。

   真理を突きつめることは常に最重要事である。だが、一介の人間が世界の原理をすべて把握出来る と信じることは愚かだ。“ぎりぎりまで行ったら判断停止をし、微笑むしかあるまい”と、その如 意輪の笑みは教えていた。

   私はだからその時も手を合わせなかった。しかし、どんな時よりも真剣に仏像を見つめ続けた。そ して、かたわらのみうらさんと軽い冗談を言い交わし、御堂を出たのだった。

   仏像の前を、判断停止の空間とする考え方。それは少なくとも、御利益思考の数倍は仏教的ではないかとも思う。いや、そんなことより何より、ただ盲目的に拝ませることはもはや仏教の使命では ないはずだと言いたい。

   現に我々の本を読んだ若者が数多く寺を訪れ、静かに仏像を見つめていると聞く。どうか彼らに対 して敬虔であることを強いたりしないで欲しいと願う。それが力のある仏像ならば、必ず見仏人は敬い、自然に“心の頭”を垂れるはずだからである。


1996
seiko ito


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5/APR 1998

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